ガザ地区について、歴史的な経緯や戦争の原因、関係諸国の考えを整理してみました。
ガザ地区とは?
ガザ地区は、中東のパレスチナ国に属する行政区画で、細長い地域であり、北西は地中海に面し、北東はイスラエル、南西はエジプトに接しています。面積は約365平方キロメートルで、約200万人が住んでいます。
1993年のオスロ合意により、イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)、ガザ地区は、ヨルダン川西岸地区と共に「パレスチナ自治区」になりました。しかし、ガザは、2007年以降、イスラエルにより軍事封鎖されています。
現在の状況
- 人道的危機: ガザ地区では、食糧、水、医薬品、電力などの基本的な生活必需品が不足しており、多くの人々が困窮しています。特に北ガザでは、イスラエル軍の攻撃と厳しい包囲により、人道的支援がほとんど行われていません。
- 戦闘と破壊: イスラエルとハマースの間での戦闘が続いており、多くの建物が破壊され、多くの市民が犠牲になっています。2023年10月7日以降、少なくとも47,317人のパレスチナ人が死亡し、111,494人が負傷しています。
- 難民の帰還: 最近、イスラエルとハマースの間で一時的な停戦が成立し、多くのパレスチナ人が南ガザから北ガザに戻ってきました。しかし、彼らが帰ってきた場所は、瓦礫の山だけで、生活の基盤がほとんどない状態です。
- 国際的な対応: 国連や国際的な人道支援団体がガザ地区に対する支援を続けていますが、イスラエルの厳しい包囲により、支援物資の供給が困難になっています。
歴史的な経緯
- 古代から中世まで: ガザ地区は紀元前6000年頃から人が定住しており、古代エジプト、アッシリア、バビロニア、マケドニア王国などの支配を受けました。
- オスマン帝国時代: 1517年にオスマン帝国がガザを占領し、その後400年間、オスマン帝国の支配下にありました。
- イギリス統治時代: 第一次世界大戦後の1917年から1948年までイギリスが統治しました。
- パレスチナ分割: 1947年に国連がパレスチナ分割案を採択し、ガザ地区はアラブ人の居住地となりました。
- イスラエル建国と戦争: 1948年にイスラエルが建国されると、周辺のアラブ諸国との間で第一次中東戦争が勃発し、ガザ地区はエジプト軍に占領されました。
- イスラエル占領と撤退: 1967年の第三次中東戦争でイスラエルがガザ地区を占領しましたが、2005年にイスラエルはガザ内部から入植者と軍を撤退させ、事実上ガザを放棄しました。 しかしその代わりに周囲を封鎖、人や物の出入りを大きく制限しました。
- パレスチナ自治政府の選挙: 2006年の選挙では、それまでのPLO (パレスチナ解放機構。オスロ合意でイスラエルとの対話路線を選んだ「ファタハ」が中心で、民族主義的で非宗教的。)ではなく、 「ハマス」(イスラム主義を掲げる政治グループ、対イスラエル強硬派)が多数派となりました。
- ガザの封鎖: ハマスがファタハをガザから追放し、事実上ガザを支配するようになると、イスラエルはガザの封鎖をいっそう強化しました。 2008年には食料や燃料など生存に必要な物資も最低限しか搬入されなくなりました。
戦争の原因
ガザ地区は、イスラエルとパレスチナの間での対立の中心地となっています。主な原因は以下の通りです:
- パレスチナ難民: 第一次中東戦争後、多くのパレスチナ人がガザ地区に避難し、人口が急増しました。
- ハマースの台頭: 2005年にイスラエルがガザ地区から撤退した後、武装組織ハマースがガザ地区を支配し、イスラエルとの対立が激化しました。
- 人道的危機: ガザ地区は「天井のない監獄」とも呼ばれ、人や物資の移動が厳しく制限されています。食糧や医薬品の不足が深刻な問題となっています。
関係諸国の考え
- イスラエル: ガザ地区を「テロリストの巣」と見なし、安全保障の観点から厳しい措置を取っています。
- パレスチナ: ガザ地区を自国の一部としており、イスラエルの占領と分離壁の設置に反対しています。
- エジプト: ガザ地区との国境管理を強化し、武器の流入を防止するための措置を取っています。
ガザ地区の問題は非常に複雑で、歴史的な背景や現在の政治的な対立が絡み合っています。
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